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高齢の人は、自分より若い人と交流を持つと、それはそれで刺激になる。
ただし、程よい歳の開きが望ましい。
あまり離れ過ぎると相手の気持ちや感覚が理解できない。
少し前は自分はそうだった、とか、少し経つとこうなるのか、とか、参考になったり、自覚する助けになる。
さらに、高齢の人は、その人が若い頃、お近づきになりたくてもなれないほど、格段に差があっても、老化によって少し能力が低下して、以前より差が縮まり身近に感じる。
ではあるものの、プライドばかり高い、能力の低下を認めない高齢の人は、老害予備軍になる恐れがある。
そこそこ素直な、能力が低下しても、わたしよりまだまだ、うんと上だったりするため、プライドは保たれる。
しかも、惜しみなく知識や見解を示してくれる。
ただ、考えが偏っていたり、間違いを平気で押し通したりする人は、やはり老害予備軍となる。

しかしながら、正しくバランス良く老化するのは、実に難しい。
客観的に判断する力が衰えると思われる。
誰しも自分を正当化したい。

(自分とは歳の開きがある)お年寄りの人とは、脳内で自由に交流する。
そのほうが、お互いにウィンウィン。
一緒に行動するにはやはり壁がある。
体力の個人差がある。
自分の心身が無理のないように動きたいため、人に合わせるのは苦痛になる。
それに、人によって苦手な行動がマチマチ。
トイレ不安のある人や、長く歩くのが辛い人、色々。
なので、脳内で交流すると自由。
一緒に実際に同じ空間、時間で行動しなければ、感動を共有できないわけではない。

だが、体を動かさず、家から一歩も出ず、脳内だけで活動すると、リアルな瞬間的なライブ反応が得られない。
ネットの向こうで生動画で繋がるのもありだが、やはり、実物の息遣いは直接感じられず、脳内の感覚に近くなる。
コロナ真っ最中はそれしかないが。
在宅勤務ならそれでよいが。

同じウォーキングをしても、室内でランニングマシーンで歩くのと、屋外で歩くのでは目に映るものが違う。
天候、季節、空気、景色、人々、、、その時だけの状況を肌で楽しむ。
脳内だけでは、実際に直接、直に感じるものとは当然違って来る。
そのリアルな反応が嫌で、刺激が強すぎたり、不快に感じたりすると、外に出ない人もいるが。
自分をどのへんまで出すか。
プロテクターの強度はどんな程度のものか。  

蝶ブログを私物化し(当たり前。わたし専用のブログ。毎月、使用料、払ってます)、好き放題に書く。
何を?
もう何度も何度も書いているのに、しつこく同じことを書く。
これはわたしをはじめ、高齢者の特徴でもあるが、ひとつ、老化現象ではないところもある微創腎癌手術
それは、、、自覚していることだ。
(買い物も、家に既に買い置きしていることを自覚しながら、また買う)

書く前から、あるいは、書きながら、
あ、これ、2回目だ、、。
3回目?5回目?
さすがに10回は書かないが、事実は一つではあるものの、手を変え品を変え、当時の心境が時を経ると少し変わる。
(それが高じると、意図せず事実まで変わることがある)
1日1日、時は動いているので、同じ時間、時刻は2度とない。
だから、同じ事を書いても、毎日、日々、更新される(はず)。
だが、マイナーチェンジのため、書いた本人にしか違いがわからない。
なので、読む人は、ああまたか、うんざり、、、これ、何回目???となる。
過去の出来事で印象に残る、こだわっている経験なのだろう照CT
何度も何度も書いているうちに、自分の想いが精製される。


それはそうと、、、
趣味仲間の男性。高齢のお方、Aさん。
絶対に自分が高齢であることを認めない。
身体本体も身体能力も運動技能も頭脳も、衰えている自覚が全くない。
なので、この人の言う通りに従っていたら、わたしの身体が壊れる。
なので、ほんの少しでも具合が悪い予兆があると、わたしはストップする。 
自分の身体は自分で守らなければ、誰も責任を取ってくれない。
ましてや、わたしが具合が悪くなったとしても、付きっきりで看病してくれるわけでもなし、ヘルパーさんを雇ってくれるわけでもなし、最期まで看取ってくれるわけでなし。
せいぜい救急車を呼んで救急病院まで救急車に同乗してくれるぐらいだ。
わたしの家族が到着するのが仮に夜遅くになるとすると、病院の医療従事者の方々にあとは任せて、とっとと自宅に帰って行くだろう。
まだ病院に搬送されるまで付き合ってくれたとしたら「御の字(→死語)」。
そういう図が見えるため、自分の身体は自分で守る。
オリンピックの強化選手でもあるまいし、年寄りのお遊びに、身体を張る気は、全くない。
いつでも、「はい、さようなら」と荷物をまとめて帰る、退路を確保した、こころの準備はしている。
運命共同体でもない、お遊び(趣味)の関わりは、所詮、お遊びで、いつでも抜けられるニュートラルな場所にいる。
わたしにとって、趣味なんてそんな程度。
「生きがいだ」なんて真剣に思っていたとしても、本当の生きがいは、楽しい浮ついたことばかりではなく、生きるか死ぬかの、ギリギリを死守するための努力、みたいなものか。

話を戻す。
このAさんは、人の話を聞かない。
というか、聞きたい話しか聞こえない。
かつての晩年の姑と同じ。
脳がカチコチに固まって縮んでいるのだと推測するが、本人には自覚がない。
なので、そんな人と、あまりまともに話をしないほうが身のためである。
どうせ聞いてないだろうと、それをいいことに、わたしも好き勝手をしゃべる眼袋槍
耳の聞こえない人同士の会話のようだ。  


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