話は変わるが、
「女性が描く理想の老後とは?」という内容のブログ記事を読んだ。
まだ30代や40代、50代の女性が想像する老後と、60代、70代が想像する老後、さらに、80代、90代が直面する現実の老後とは、少し温度が違う。
共通するものは、「心身の健康」と「お金」のようだ。
かつて何十年か前は、仲間や友人、家族という「人」も必須とされていた。(今もかも知れないが)
お一人様が増え、家族に代るものを必要とされるが、お互いに距離感を保つ。
もたれかからない間柄となると、それはそれで自制し、結構大変である。
京都・東山、ねねさんの終焉の場である「圓徳院」を訪れると、尼さんになってこんなところで、しっとり、ひっそり世を去るのは理想だと感じた。
超超超高級スペシャルVIP待遇老人ホーム。
豊臣秀吉の奥さんぐらいにならないと、例え平民であっても、無理だろう。
いや、大谷翔平の妻なら可能かも?
だが、わたしが大谷翔平の妻になること自体が不可能である。
残念ながら。
仮に、企業創始者の家族ぐらいなら、可能かも知れないが、これまた残念ながら空想、いや、妄想の世界になる。
理想は、自立出来なくなるまではギリギリまで自宅で通いのヘルパーさんに補助してもらい、補助は限界となったら、普通の老人ホームに入る。
自宅療養だとか、家族には無理は言わないつもり。
自分を犠牲にしてまで、身を粉にして、それだけの手間暇かけて家族に愛情を注いで来なかったツケとして、見返りは期待しない、というか、期待したらバチが当たる。
お互いに、じつに、あっさり。
TV(Eテレ)で自宅での看取り、美しい最期を紹介されていたが、余命数ヶ月の家族だった。
それなら、(看るのが)わたしなら全力で取り組むかも知れない。
(看られるのが)わたしなら、どうだろう?
自分に悔いが残るかどうか、である。
ねねさんが、圓徳院に移り亡くなるまで(58〜77歳)は、今のわたしと重なる年齢。
身体が動くうちは、夢いっぱいの幻想を抱ける、いろんな光景、風景を見て歩きたい。